嘘の中の本当『バクマン。』


大根仁監督・脚本『バクマン。』期待通りの面白さでした。

もともと記号的表現の固まりである漫画を実写映像化する場合、漫画表現を活かした戯画に振るか、生身を活かした写実に変換するかは大きな選択の分かれ目である。

最近は写実に振る作品は少なく、漫画をそのまま絵コンテとして下敷きにしたような安直な戯画化がほとんどで、多くの場合失敗に終わっているのはご存じの通り。


映画版『バクマン。』は誇張されたキャラクターたちやペンを使ったバトル・シーンを見れば分かるように完全な戯画路線だけれど、他の失敗作と違うのは、作り手が戯画であることにとことん自覚的な点だ。

堤幸彦作品にも感じることだが、大根監督のルーツのひとつは久世光彦なのではないかと想像する。既存のドラマ作りの枠をはみ出す姿勢、それはお話をまともに語ることへの照れの表明でもあるし、嘘は嘘として伝えなければというある種の誠実さのあらわれでもある。


バクマン。』には、例えばペン入れの際に紙を回転させる動き、他人が自分の絵の上に線を足す不快感、編集者が原稿を読む時の異様なスピードなど、「嘘の中の本当」が詰め込まれている。繰り返すが、それらのディティールは戯画であることに自覚的だからこその拘りなのだ。

個人的なことだけど、20歳の頃、集英社の雑誌で漫画を描かせて貰っていたことがある。『バクマン。』を観て、当時の興奮や不安、焦燥感や作ることの快感が、しんどかった思い出と共にごちゃごちゃになって蘇ってきた。自分が得たこの感触は、『バクマン。』を観る漫画を描いたことのない人にもきっと伝わるのではないだろうか。


大根監督の昔のブログで、橋本忍伊丹万作の「原作物を脚本化する」ことについての会話が引用されていた(『複眼の映像〜私と黒澤明』)。伊丹曰く、原作ものに手をつける際の心構えは「“牛”を毎日見に行く。そして急所が分かると一撃で殺す」だそう。

バクマン。』における牛の急所とは、漫画を描くこと、読むことの熱狂に他ならない。