『岳』とフィクションのなかの“死”


『岳』は、ボランティアの山岳救助隊員が主人公の“山もの”。この主人公が、よくある無垢な純真キャラというやつで少々鼻につくものの、なかなか質の高い作品だと思う。

毎回、主人公が遭難者を助けたり助けられなかったりするというストーリーが基本パターンで、自分が好みに合うなと思うのは、“死”の描き方だ。“山もの”といえば、『神々のなんたら』みたいに妙に神秘的なムードに流されたり、遭難者の死を「さあ、泣け!」とばかりにドラマチックに描きすぎたりするものだが、このマンガでの“死”の描写は、淡々としていて心地がいい。さんざん捜索してようやく発見した死体が、白骨化して無造作にゴロリと転がってたりする。なんとか助けたと思ったら、ヘリ到着と同時に急変して死んだりする。でも現実の“死”ってそんなものだ。

“死”は、フィクションの受け手の感情を揺さぶるのに非常に有効な武器なので、その扱い方次第で作品の“品”のようなものがかなり決まってくると思う。下品の極みは、例えば『宇宙戦艦ヤマト』みたいな映画で、そこでの“死”は、娯楽としての泣きを呼び込むツールでしかない。

手塚治虫は、あるアニメ映画でヒロインを殺す理由として、「そのほうが感動するから」と言い切ったそうだ。確かに『ブラックジャック』なんかでも、物語のオチにもうひと盛り上がりを作るため“だけ”に、登場人物をさして意味なく殺したりすることが多い。ただ、一方ではいくつもの長編などで、厳粛で深い余韻のある“死”を描いているのももちろんで、この辺に商売人と芸術家の間で揺れる手塚治虫が見え隠れするのだが……。

話が逸れましたが、『岳』と同様に、“死”の扱い方がよいマンガといえば、最近では『蟲師』だろうか。起こってしまったこと、死んでしまった人は、絶対に覆らないし戻ってこない。そういう諦観が作品全体に滲んでいる点が、なにより好きだ(最近、さすがにワンパターンですが)。大友克洋の実写版は、そのあたりがまるでわかっていない予感がして観る気が起きないのだ。


岳 (1) (ビッグコミックス)

岳 (1) (ビッグコミックス)

蟲師 (1)  アフタヌーンKC (255)

蟲師 (1) アフタヌーンKC (255)