『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』の余韻が頭から離れない


小説やマンガを読み、その衝撃や余韻を読み終わった後もしばらく引きずり、なかなか現実世界に意識を戻せないということが、このすれた僕にも稀にあります。今年の前半でいえば(刊行は昨年ですが)村上龍の長編『半島を出よ』、後半ではなんといっても新井英樹の大作コミック『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』(以下『TWIM』)がそれにあたると思います。


『TWIM』は、ヤングサンデーの連載時に毎週なんとなく読んでいたけれど、何週か抜けてしまったのをきっかけにわけがわからなくなり、おそらく前半で読むのをやめてしまった記憶があります。今回、復刻版であらためて通読してみて分かったのですが、“わけがわからなくなった”のは、何週か飛ばしたからではなく、もともとこのマンガ自体が通勤電車で軽く読み飛ばせるような生易しいものではなかったから。


無理を承知で内容をひとことで言えば、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』ミーツ『ゴジラ』というか。無差別連続殺人鬼コンビの殺戮ツアーに、突如東北に出現した巨大怪獣(?)の進撃がクロスし、ふたつの事件に関わる加害者、被害者、警察、マスコミ、政府といったさまざまな人々がそれぞれのドラマを展開する、まあ、相当無茶苦茶でやたらスケールがデカい群像劇なわけです。理由なき殺人と破壊の描写を延々見せられるため、最後まで読み通すには気力・体力が必要ですが、作者自らが「道徳の教科書のつもりで描いた」と言うとおり、バイオレンス描写は目的ではなく、すっかり緩んだまま無駄に安定した、いまの日本人の価値観に、とにかく思い切り揺さぶりをかけるのが狙いなのだと思います。


最近ようやく読み終えた『デスノート』と実に対照的でありつつ、現代を強く意識しているという意味で根っこは同じだなとも感じました(どちらがいい悪いではなく)。殺人を「削除」と呼ぶ『デスノート』の感覚は、ダイレクトな感覚なきまま他人と繋がっている“mixi世界”の実感そのもの。対する『TWIM』では、主人公にあっさり惨殺させる前に、被害者の個人的背景や生活感を執拗に描写する、つまりは人間を人間として認識させる徹底した姿勢が貫かれています。「隣の人間をちゃんと見ろ。それは記号ではない」と。


『TWIM』で僕が特に印象的だったのは、無差別殺人コンビのリーダー通称モンは、神々しささえ漂わせる絶対的存在として登場するのに対し、無責任の代名詞のようなマスコミと、それに踊らされて空騒ぎする大衆はひたすら醜く愚かな存在として描かれている点。このイライラ感が、すべてのアクション・シーンの底流に流れているムードは、地上波の番組を5分観ただけで殺意さえ沸いてくる最近の自分にとって、正直快感でした。


このマンガ、すでにあちこちで話題になっている通り、宗教的・哲学的ともいえる驚愕のラストを迎えるわけですが、全体を通してみれば、スピルバーグの『宇宙戦争』をしのぐ大破壊スペクタクルであり、青春のやるせなさ漂うニューシネマ風ドラマであり、果ては『砂の器』か!?と思わせる泣かせるドラマでもある。電話帳5冊分に匹敵するような圧倒的分量、こめられている内容の娯楽性、テーマの深さ、各登場人物の尋常でないキャラ立ち具合。どれをとっても、最近めったに見かけない、ものすごいマンガだと思います。なにに似ているかといえば似たものはないのですが、僕は手塚治虫の後期の傑作『きりひと賛歌』を思い出しました。

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)